ときいろ日記

日本に生きる私の雑記

「花」によせて

こんにちは。理加です。

 


今日は、「花」ということについて書こうと思います。うまく書けるか分かりませんが、よろしくお願いします。ここでいう花とは、物理的な花の他に、理念上の花もあります。いくつかの文献を紐解きながら、考えていきます。

 


まず、前回も取り上げましたが、芭蕉が著したもののなかにも「花」という言葉が登場します。

 


「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもう所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(『笈の小文』より)


ここは芭蕉俳諧における理念を記している箇所です。ここで芭蕉は、見るものすべてに花を見る、思う所すべてが月のように美しい、というようでないといけないと言っています。(なかなかハイレベル。。)で、夷狄というのは野蛮人を意味するらしく、見るものに花が見えなければ野蛮人と一緒だとか、心に花を思わないなら鳥獣と同じだよと言っています。そしてそれらを脱して天地自然(創造の主?)にしたがい、自然に帰れと言っていると思われます。

見るものすべてに花を見るというのは、自分の心の目が鋭敏で、繊細でないとできないと思います。私たちは往々にして、見えてはいるが見ていない、ということがあると思います。また、見えるものが灰色に見えるというときもあるかもしれない。

確かに人生では色々なことがあって、時に苦難もあるし、そんなとき目の前が暗くなることもあるかもしれない。でも、どんなときであっても、心に花があるならば、見るものに花を見ることができるのかもしれません。

 

さて、花といえばこちらも有名なのですが、能の大成者、世阿弥の書いた『風姿花伝』という書物があります。

これは能の、ひいては芸事の指南書のような本ですが、ここにも、花という言葉が沢山出てきます。多いので一番好きかなと思った所を挙げます。

秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。」(『風姿花伝』より)

この箇所は有名な言葉ですね。敢えて明かさない、秘することの力というか。手品で、種明かしという言葉がありますが、あれ、全部を種明かしされたら、見る人いなくなりますね。

いちばん大切なタネ、は、敢えて明かさない、うまく言えませんが。。もちろん、なにもかも全部秘密にしてしまったら、意味不明で終わる。だから、表出すべきことと秘するべきことを見分ける必要がある。

 

最後に紹介するのは、聖書に出てくる「花」のたとえです。

まずはイエス様が言われたたとえから。

‭‭ルカによる福音書‬ ‭12:27‭-‬28‬ ‭口語訳‬‬
「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 」

ここでイエス様は野の花をたとえに挙げて、神の恵み深さ、それに信頼することの重要性を説いています。

 

聖書には、ほかにも、人を野の草花にたとえている箇所があります。

‭‭詩篇‬ ‭103:15‭-‬18‬ ‭口語訳‬‬
「人は、そのよわいは草のごとく、 その栄えは野の花にひとしい。 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、 その場所にきいても、もはやそれを知らない。 しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、 主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、その契約を守り、 その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。亅

 

これについては多くは言いません。詩篇ですので、味わってみてください。

 

 

さて今日は、ちょっと長くなりましたが、花によせてと題し、花のたとえのある書物をいくつかあげました。

私自身思いますが、とくに野の花などは、明日をもしれない命を生きているのですが、今を咲く、咲き切るということをしています。

花は完全なる今を生きています。

その姿には学ぶものがありました。

私たち自身も、明日をも知れぬ命を生きている者なのかもしれません。だから、今日を大切に、今を生ききることを大切にしたいと思いました。

 

 

だけど、そこで終わらない、永遠を思う思いがある、永遠なる主を思う思いがある。