ときいろ日記

日本に生きる私の雑記

「死に光り」

おはようございます。理加です。

月曜の朝、いかがお過ごしでしょうか。

こちらは早くも雨が降ったりやんだりしています。

午後からは本降りになるようですね。

 

さて、今日も、古語、いきます!

 

しに‐びかり(死に光り)

死に際が立派なこと。人柄や人徳が褒められるような死に方。

 

今日は、名詞「死に光り」のご紹介です。

たまたま辞書で見つけた言葉で、こんな言葉があったのかと思って紹介することにしました。

死というテーマは、タブー視されがちですが、実はありふれた、日常の先にあるテーマでもあります。

今回の、死に光りという言葉は、死に際の立派なことを表した語ですが、皆さんは、そんな、立派な死に方だったと思えるような人の死に、出会ったことはありますか。

 

最近イースターという祭りがありましたが、これはキリスト教圏では、死から復活されたキリストを祝い、先に天に召された信徒を偲ぶ時ともなっています。

私は直接見たわけはないのですが、聖書を通して、キリストの十字架の死の壮絶さ、そしてまさに「死に光り」しているさまを目のあたりにしたわけなのですが、キリストはさらに死の先の、復活された姿で、弟子たちと会ったのちに天に挙げられました。

十字架での死というのは、私の罪の身代わりだった、そしてキリストは、一度は葬られたが、三日目に死からよみがえられた救い主である、というのが、多くのクリスチャンの信じている、信仰の内容であろうかと思います。私も信じていますが、なぜイースターに亡くなった方の記念会をするかというと、キリストを信じるなら、またキリストに続く者となれる、つまりキリストが死んでよみがえられたように、私たちも、たとえ死んでも復活する希望が与えられているからです。キリストの辿られた生涯のすべてが、人生は死で終わりではないこと、信じる者に永遠の命があることを示しています。

今回、なぜキリストについて書こうという気になったかというと、死に光りという言葉に、最もふさわしい方がイエス様だと思ったからです。その十字架の死は、私たちのためであって、その死はいまも私たちに深く語りかけるものです。でもそこで終わらないのが主なるキリストの真骨頂です。復活の希望があります。天国は確実に存在すると、キリストを以て言い得ます。

さて、外に出れば桜は満開となっていました。

人は、散りゆく桜の美しさを知っています。そのように私も生きられたらかっこいいなとも思います。

でも、人の命は散って終わりではないということを、どうか頭の片隅でも、覚えていてください。

そして、キリストがあなたの本当の命を、魂を、ほんとうに救ってくださる方だと、今はわからないかもしれないけれど、今際の際に思い出せるように、今のうちに覚えていてほしいと、願います。

 

今日は、少々長くなってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。

皆さん、どうぞ良い一週間をお過ごし下さいね。

 

めでたしめでたし。